言語感覚の共有

なぜこうも人間は争いを繰り返すのでしょうか?

 

国家間、企業間、さらには夫婦や親子間でも互いを理解しあえずに、衝突してしまうことがあります。

 

 

昨年、思索倶楽部アイリスを立ち上げました。多様なバックグラウンドの方がほぼはじめましてで会い、それぞれを尊重しながら自身の考えを伝え合う場をつくりました

 

 

そこで感じたのは、「言語感覚の共有」の重要性です。

 

 

 

複数の人々との有意義な会話の時間を共有するには、互いに高度なテクニックが必要となります。と言っても、それが無意識のうちに身についていることが理想です。

 

つまり、

 

①それぞれの人の「言葉」に丁寧に反応し、その人の会話を決して邪魔しない。

②自身の会話を正確に伝えるために「言葉を常に選ぶ」。

③誰かの言葉や態度に支配されない。

④会話に参加する人々にストレスがなく、会話後に爽快感が残る。

 

 

こうやって列挙するととても難しい会話空間であると思えてしまいますが、「思索倶楽部」の参加者には、そういった互いへの気遣いが感じられて、おそらく理想的な会話空間が構築できたのではないかと勝手に思っています。

 

 

つまり、あるひとつのテーマに寄り添った人々が「同じ言語感覚」で会話を続けて、それが思索へと繋がればいいと思うのです。そういった理想のカタチに近い状態が実現できたことに少なからず喜びを感じた次第です。