正解と間違い

 

街中を歩くと、人が少ないのにいまだにマスクをしている人を良く見かけます。マスクをする理由は人それぞれだと思いますが、自分で導き出した「正解」だといいのですが。

 

4回ワクチンを打った岸田総理も陽性になりました。抗体ができるまでにかかったのか、そもそも今のワクチンが効果が弱いのか、いろんな見立てがあります。

 

 

そう考えると、「正解」というのは社会の同調圧力が向かう方向性なのかもしれません。

 

 

今は、「正解」らしきもの世の中に溢れかえっています。結果として弱者、失敗、異端、異常などが排除されるような構造になっていますが、大きな視点でとらえると、その原因は未来を安易に想像しやすくなってしまったことにあるのではないでしょうか?

 

 

技術が発達して、人々の生活が便利になり、答えらしきものが増えると、答え探しに躍起になる。でも、自分の「答え」も、そもそも「問い」も持ち合わせていないので、不安になり余計に他人を攻撃してしまう。そんな感じだと思います。

 

 

世界がインターネットで表面的にはつながってしまったことで、かつては存在していた身近な共同体(家族・地域・会社)内での理解や共存共栄の感覚が薄れてしまっている気もします。

 

 

 

また、理想の状態や結果を皆で共有できていないことが、「間違い」という概念を生み出しているとすると、「正解」は個人の意志の方向性とも言えると思います。

 

社会が向かう方向性と、自分が向かう方向性、どちらも「正解」の出発点ではあると思います。でも、それが「正解」にはなりません。

また、「正解にする」と「正解になる」の違いもポイントだと思います。前者は、自分が選んだこと、自分が決めたことを「正解」にしていく。そのためには、決断や忍耐や寛容が必要でしょう。後者は、自分の努力の結果かあるいは運命によって、そう思えてしまうコトです。いろいろ困難や障害があっても、最終的にはその状況を受け入れるということですね。自分軸にも関係します。

 

 

「正解」の反対とされる「間違い」はどうでしょうか?

 

「間違い」という言葉にはマイナスのイメージがありますが、「間」を除いて「違い」という言葉に置き換えるとだいぶ印象が変わるように思います。

 

 

「あなたの考えは間違っている。」

「あなたの考えは違っている。」

 

 

「間」をとるだけでも、頭に張り付いたイメージが取れるのは不思議ですよね。

 

 

あるいは、「間違い」を「場違い」と言い換えてもいいかもしれません。

 

 

「あなたの考えは、場違いだよ。」と。

 

 

間が違う、場が違う、タイミングが違うだけなんですよね。

 

 

最後に、・・・

 

 

「間」というのは、私たちが生きるために大切なことだと気づきました。

 

時間

空間

 

そして、

 

人間です。

 

 

こんな風に、私たちが普段「正解」「間違い」と思っているものは、とても曖昧で適当なものだと思っておくと、もう少し自由に、もっと創造的に人生やビジネスを謳歌できるのではないでしょうか?